「苦しくたって悲しくたって」
みなさんはバレーボールをやったことはありますか?部活動でやっていた人もいるかもしれないし、それでなくても体育の授業などで、ほとんどの人がバレーボールに触れたことがあるのではないかと思います。
バレーボールはご存じのように、まずはサーブを相手コートに打ち込み、そのサーブをレシーブしたチームが、今度はトスを上げて再び相手コートにボールを打ち返します。この繰り返しでプレーは進みます。
さて、とにかくスポーツというスポーツ全般が苦手だった私が体育教師に指導されたのは、「レシーブをするときに腰が高すぎる。いつも重心を低く、膝を柔らかくしてどんなボールでも反応できるようにしておかないと、急にレシーブしようとしてもうまく対応できないぞ」ということでした。そう、コートで棒立ちで待っている私は、ボールが飛んでくるのが見えてから慌てて動いて、間に合わずにボールを落としてしまうか、ボールに触れたとしてもうまく捌けず明後日の方向に飛ばしてしまうばかりだったのです。うまくレシーブするためには低い重心で素早く、ボールの落ちるところに入り込んで、着実にサーブやスパイクを処理していかなければなりません。
これは実は私たちの信仰生活でも同じことが言えます。ギリシャ語で「謙遜」はタピノスと言い、これは「低くする」という意味を持ちます。また「忍耐」はイポモニと言い、これは「待つ」という意味を持っています。謙遜も忍耐もキリスト者にとってとても重要な心ですが、言い換えれば「重心を低くし、待つ」ということが求められているということです。バレーボールで相手のサーブやスパイクに備えるのと同じです。
神はしばしば私たちの人生にサーブを打ち込んできます。目の前に困っている人がいる状況で「どうする?」と問われること、あるいは洗礼を受けようかどうしようか、というような大きな問いもあるでしょう。神の求めや、問いかけは私たちの日常生活の中に、まるでサーブのように飛び込んできます。その時に自分を高く見積もる傲慢な心では、神からのサーブを次々と見逃すか、見当違いの方向にボールを弾き飛ばしてしまうだけです。そうではなく、自分の小ささを知り、いつでも神の言葉を聞き逃すまいとする謙遜で忍耐のある心、すなわち「膝を柔らかく重心を低くして待つ」心だからこそ、上手に神の問いかけに反応することができるのです。
さて、人間の中で誰よりも上手に神からのボールをレシーブした人とは誰でしょうか。それは生神女マリヤでしょう。「神の子の母となってください」という神からのとんでもない問いかけは、まさに強烈な神のサーブです。それに「そのようになりますように」と生神女が応えられたのは、生神女が誰よりも謙虚で、いつでも神の問いかけに応えられるよう備えていたからです。
生神女が名レシーバーだったことに私たちも倣いたいものですね。
ソース:
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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聖オルバン
Saint Alban, the first Martyr of Britain (+3rd century)
聖オルバン は、イギリスで初めてキリスト教殉教者として記録され、そのためイギリスの守護聖人として崇敬されている。仲間の聖人ジュリアスと聖アーロン(Julius and Aaron)とともに、彼はローマ帝国時代のブリテンで早い時期に記録された3人の殉教者のうちのひとりである。
オルバンは自分の神父と衣服を交換して彼を救ったという逸話が伝わっていて(神父の名前は伝わっていなかったが、後にアンフィバルスAmphibalusとされた)、3世紀か4世紀の間にヴェルラミウム(現在のハートフォードシャー南部のセント・オールバンズ)で斬首されたと考えられており、彼の信仰は古代から同地で祝われてきた。
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至聖なる生神女よ、我らのために祈りたまえ。
Holy Virgin Mary Mother of God (Holy Theotokos) pray for us!
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日本の聖ニコライ、我らのために祈り給え
Saint Nicholas Kasatkin of Japan, pray for us
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十字架はいのちの樹
The Cross is the Tree of Life
十字架はいのちの樹
そこからわたしたちはいのちを受ける
十字架は、避けて見ないようにするものではない
それを受け入れ、生きるように呼んでいる
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今日は大致命者·凱旋者聖ゲオルギイ(ゲオルギオス)の記憶日です
Feast day of Saint George the Great Martyr
今日は大致命者·凱旋者聖ゲオルギイ(ゲオルギオス)の記憶日です
龍を退治した伝承で知られている4世紀の致命者ですね。
ジョージア、モスクワなどの国/地域や、ルーマニア陸軍、ギリシャ陸軍など、軍の守護聖人でもあり、正教圏の国々では愛されている聖人です。
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わたしたちにも駆け寄ってくれる
Run up to us
聖母が十字架を背負ったイエスに駆け寄って
いっしょに血まみれほこりまみれになりながら
まなざしで語り合うところだ
わたしたちの天の元后は
じぶんが汚れることなんか関係なく
わたしたちにも駆け寄ってくれる
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今日は聖アンフィアンと聖エデシィの記憶日です
今日は聖アンフィアンと聖エデシィの記憶日です。
彼らは兄弟で、異教徒の官僚の子供として生まれましたが、異教の勉強をする為に行ったベイルートでキリスト教を知り、熱心な信者になりました。
マクシミヌス帝による迫害によって苦しんだものの、最後まで信仰を捨てず、海に沈められて致命しました。
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主憐れめよ
Lord mercy
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聖書は永遠の命への明確な道を紹介しています
The Bible introduces a clear path to eternal life
聖書は永遠の命への明確な道を紹介しています。まず、私たちが神に対して罪を犯したことを認めなければなりません。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ人への手紙3章23節)。私たちはみな、神に喜ばれないことをしてきたので、罰を受けて当然な立場にあります。私たちのすべての罪は、最終的に永遠の神に反することなので、永遠の刑罰を受けるに値するのです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト·イエスにある永遠のいのちです」(ローマ人への手紙6章23節)。
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新年のトロパリ
New Year's Tropar
万物の造成者よ、爾の恩沢を以って、年に冠らせ、生神女の祈祷に因りて我が国を平安に守りて我らを救い給え。
+新年のトロパリ
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伝道会のお知らせ
Evangelism Notice
盛岡正教会では一人でも多くの人に、「正教会」について知ってもらうために「伝道会」を行うことにしました。正教会は私たちが普段よく目にする「キリスト教」とはだいぶ異なります。日本においてイメージされるキリスト教は、西方キリスト教すなわち「カトリック」や「プロテスタント」の教会であることが一般的でしょう。残念ながら日本では正教会の数は決して多くなく、したがって正教会について知る機会というのは大変限られたものになってしまいます。
しかし地中海世界の東方で発展した正教会は、地理的にも歴史的にも使徒以来の伝統を強く受け継いでおり、西ヨーロッパで発展した西方教会とは異なる思考、神学、伝統を持っています。(※もちろん、共通するものも多くあります)
もし、「キリスト教について学んでみたいけれど、話を聞いてもしっくりこない」「聖書に書いてあることの意味が分からない」「ギリシャやロシアが好き」など、どんなきっかけでも、関心があればどうぞ伝道会にご参加ください。もしかしたら、全く新しい知見、キリスト教観、体験に出会うことができるかもしれませんよ。
伝道会の予定:
新しい試みなので、日時等は今後変更になる可能性が十分考えられます。ご注意ください。
第2シーズン(1-4月)
「マルコによる福音書を読む
正教会では大斎の期間に読まれることの多い「マルコ福音書」
正教会の伝統ではどのように福音書を読み、そして理解するのかを学びます。
第7回
3月25日(木)17:30
第8回
4月8日(木)17:30
ソース:
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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「今日嬰児は枝を執り、爾を勝利者と讃美して、爾に呼べり、ダヴィドの子にオサンナ」
パスハの一週間前の日曜日、教会は「聖枝祭」を祝います。これはイイススがエルサレムに入城したとき、民衆が枝を手に取り、口々にイイススを讃美し出迎えたことを記憶しています。
イイススは民衆にメシア、ハリストス、ダヴィデの子、すなわち「王」として迎え入れられました。異国での戦争を勝利で終え、数々の戦利品や捕虜たちを連れて本国に帰ってくる王や将軍は、凱旋式で民衆からの熱烈な賞賛と歓迎を受けます。イイススもまたイスラエルを復興させてくれる新しい王として彼らに褒めたたえられました。枝を手に取り、衣を道に敷き、もろ手を挙げて「オサンナ!(救い給え)」と叫ぶ姿は、凱旋将軍を迎える人々の姿そのものです。イイススの「人生」において最も華々しい瞬間であったとも言えるでしょう。
しかし民衆の期待と、イイススが「王」である意味、イイススの「勝利」の意味には大きなギャップがありました。イイススは民衆がイメージするような「支配者であるローマ帝国を倒し」「イスラエル王国の新しい王として即位する」というものではありません。イイススの「戦い」の奥深い意義は、彼らユダヤの民衆には理解されていませんでした。それどころか使徒たちにも理解されていませんでした。もしかすると誰にも理解されていなかったかもしれません。
イイススの入城の姿には実はそのギャップがすでに示されています。イイススが乗ったのはロバの仔でした。ロバは馬の仲間ですが、馬よりも小さく鈍重で、戦に使うことはできません。むしろ普段の平和な生活の中でこそ役に立つ家畜です。凱旋将軍であれば普通は馬にまたがるか、馬の引く戦車に乗って入城してくるはずです。しかしイイススは違いました。平和そのもののような呑気なロバに乗って入ってきたのです。また大斎が始まる最初の週に読まれる旧約聖書、イサイヤの預言書ではメシアの支配について、「剣を打ちかえて鋤とし、その槍を打ちかえて鎌とし、国は国にむかって剣をあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない(2:4)」とあります。イイススの戦いは決して異邦人を武力で征服する戦いではありません。
そのギャップに気付き失望した民衆たちがどうしたか、ということは聖枝祭に続く一週間「受難週」で語られます。彼らは枝を鞭に持ち替え、讃美に代えて罵倒の声でイイススを非難しました。そしてローマ帝国のユダヤ総督であったピラトを強引に押し切ってイイススを十字架刑へと追い込んでいきます。ほんの数日前、人々から「王」として迎えられた人物が、あっという間に大ペテン師、凶悪な反逆者として殺されるのです。急転直下の出来事です。
しかし私たちは知っています。この転落は本当の転落ではないこと。イイススがやはり敵に打ち勝つ凱旋の王であることを知っています。イイススの敵はローマ皇帝などではありません。人間を縛り死と罪に繋ぎ止める「この世の君」すなわち悪魔です。イイススが君臨するのはパレスチナの小さな王国ではありません。全世界です。イイススがもたらすのはイスラエル民族の異邦人からの解放ではありません。全ての人間を死から解放するのです。ユダヤ人たちも、使徒たちも、イイススの親しい家族たちも、誰も理解していなかったこれらのことを私たちは今知っています。だから私たちは聖枝祭において枝を手に取り「オサンナ!」と声を上げるのです。
私たちが聖枝祭で枝を取るのは二千年前のユダヤの民衆の単なる真似事ではなく、私たちが真にイイススを本当の勝利者、本当の王として知っているからです。これから一週間の間に記憶される、主の受難と死、そして復活がイイススの本当の戦いであり、その勝利が必ずもたらされることを知っているから、イイススが死から凱旋してくることを知っているから私たちは枝を取りこの祭を祝います。
この枝の祭を共に大いに祝いましょう。そしてそのあとにやってくるさらに大きな勝利の祝祭を共に祝い喜びたいものです。
ソース:
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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「苦しくたって悲しくたって」
みなさんはバレーボールをやったことはありますか?部活動でやっていた人もいるかもしれないし、それでなくても体育の授業などで、ほとんどの人がバレーボールに触れたことがあるのではないかと思います。
バレーボールはご存じのように、まずはサーブを相手コートに打ち込み、そのサーブをレシーブしたチームが、今度はトスを上げて再び相手コートにボールを打ち返します。この繰り返しでプレーは進みます。
さて、とにかくスポーツというスポーツ全般が苦手だった私が体育教師に指導されたのは、「レシーブをするときに腰が高すぎる。いつも重心を低く、膝を柔らかくしてどんなボールでも反応できるようにしておかないと、急にレシーブしようとしてもうまく対応できないぞ」ということでした。そう、コートで棒立ちで待っている私は、ボールが飛んでくるのが見えてから慌てて動いて、間に合わずにボールを落としてしまうか、ボールに触れたとしてもうまく捌けず明後日の方向に飛ばしてしまうばかりだったのです。うまくレシーブするためには低い重心で素早く、ボールの落ちるところに入り込んで、着実にサーブやスパイクを処理していかなければなりません。
これは実は私たちの信仰生活でも同じことが言えます。ギリシャ語で「謙遜」はタピノスと言い、これは「低くする」という意味を持ちます。また「忍耐」はイポモニと言い、これは「待つ」という意味を持っています。謙遜も忍耐もキリスト者にとってとても重要な心ですが、言い換えれば「重心を低くし、待つ」ということが求められているということです。バレーボールで相手のサーブやスパイクに備えるのと同じです。
神はしばしば私たちの人生にサーブを打ち込んできます。目の前に困っている人がいる状況で「どうする?」と問われること、あるいは洗礼を受けようかどうしようか、というような大きな問いもあるでしょう。神の求めや、問いかけは私たちの日常生活の中に、まるでサーブのように飛び込んできます。その時に自分を高く見積もる傲慢な心では、神からのサーブを次々と見逃すか、見当違いの方向にボールを弾き飛ばしてしまうだけです。そうではなく、自分の小ささを知り、いつでも神の言葉を聞き逃すまいとする謙遜で忍耐のある心、すなわち「膝を柔らかく重心を低くして待つ」心だからこそ、上手に神の問いかけに反応することができるのです。
さて、人間の中で誰よりも上手に神からのボールをレシーブした人とは誰でしょうか。それは生神女マリヤでしょう。「神の子の母となってください」という神からのとんでもない問いかけは、まさに強烈な神のサーブです。それに「そのようになりますように」と生神女が応えられたのは、生神女が誰よりも謙虚で、いつでも神の問いかけに応えられるよう備えていたからです。
生神女が名レシーバーだったことに私たちも倣いたいものですね。
ソース:
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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今日は聖アンフィアンと聖エデシィの記憶日です
今日は聖アンフィアンと聖エデシィの記憶日です。
彼らは兄弟で、異教徒の官僚の子供として生まれましたが、異教の勉強をする為に行ったベイルートでキリスト教を知り、熱心な信者になりました。
マクシミヌス帝による迫害によって苦しんだものの、最後まで信仰を捨てず、海に沈められて致命しました。
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愛を基盤としない社会は続けない
A society that is not based on love will not continue
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無駄話は火のようなものだ
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今日は税吏とファリセイ主日
The Sunday of the Tax Collector and Pharisee (John 1:43-52)
今日は税吏とファリセイ主日。
キリスト教的な「謙遜」とは何かを学べる1日でした。
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ハリストス復活!実に復活!
Christ is Risen! Indeed, He is Risen!
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日本ハリストス正教会教団
東日本主教々区宗務局
Orthodox Sendai, Japan
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正教の霊的勧告
Orthodox Spiritual counsel
愛のあるその所にのみ忍耐はあり… 愛を身に纏いたる人に在りて一つの難事なし、 愛は困難を知らず。
金口イオアン
ソース:
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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私たちは天上にいるのか、地上にいるのかわかりませんでした
聖体礼儀 Divine Liturgy
「コンスタンティノープルのハギヤ·ソフィヤ大聖堂での奉神礼では、私たちは天上にいるのか、地上にいるのかわかりませんでした。あんな驚異と美とは地上の他の場所では決して見いだせません。言葉では言い表せませんが、これだけは言えると思います。『そこでは、神が人々の間におられました…』」
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://nagoya-orthodox.com/ja/正教会の礼拝.html#sokode
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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聖書 Holy Bible
Online Bible
The Holy Bible in Japanese
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日本に於けるロシア正教会
Russian Orthodox Church in Japan
その歴史が19世紀の半ばからスタートした。その時、 北海道島函館市でロシア領事館が開かれ、最初のロシア正教教会が建てられた。1861年にはそこに24歳の修道司祭のニコライ(カサトキン)が到着した。今、ロシア正教は「亜使徒聖ニコライ」 という称号を彼に与えた。
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東京大主教々区
日本正教会を探す。 日本の古代キリスト教の信仰を発見。
Find an Orthodox Church in Japan
Discover Ancient Christian Faith in Japan
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東方正教会の歴史
History of the Eastern Orthodox Church
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日本: 名古屋正教会の沿革と神現聖堂の紹介
Japan: The Orthodox Community in Nagoya and the Church of Holy Theophany
名古屋市昭和区にある正教会(Orthodox Church)に属する教会です。正教会はもっとも 伝統的なキリスト教教会で、古代教会の姿を現在に伝えています。日本には幕末ロシアの宣教師ニコライによって伝えられました。名古屋でも明治初期には活動が始まり、移転を繰り返しながら、2010年1月現在地(昭和区山脇町)に中世ロシア風の聖堂が建設されました。土日を中心とした礼拝(奉神礼)をはじめ、降誕祭や復活祭などの祭日をお祝いしています。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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キリスト教の土台
The foundation of Christianity
イイスス·ハリストス(イエス·キリストの日本正教会訳)の十字架刑による死と三日目の復活という出来事を「神による人間の救い」として直接体験し、その証人として世界中に伝えたお弟子たちのことを、特別に「使徒」と呼びます。正教会はこの使徒たちの信仰と彼らから始まった教会のありかたを、唯一正しく受け継いできたと自負します。
正教会は中世西ヨーロッパの頭でっかちなスコラ神学や近代の宗教改革も経験しませんでした。東西教会が一つにまとまっていた時代に、五世紀間にわたって合計七回開催された全教会の代表者たちによる会議(「全地公会」)で確認された教えや大切な教会規則、さらに使徒たちの時代にまでさかのぼることのできる様々な教会の伝統を、切れ目なく忠実に守り続けています。それは、キリスト教が問題に直面したときいつも立ち帰るべき「土台」と言ってもよいものです。
神学的には、人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙するという古代教会の指導者(師父)たちの精神性を受け継ぎ、後にローマ·カトリック教会が付け加えた「煉獄」·「マリヤの無原罪懐胎」·「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教理」は一切しりぞけます。またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように「聖書のみが信仰の源泉」だとも「救われる者も滅びる者もあらかじめ神は予定している」とも決して言いません。現代ではかたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を、「付け加えることも」「差し引くこともなく」守っているのです。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://agoya-orthodox.com/ja/正教会とは.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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教会のあり方
教会組織も、ローマ·カトリック教会のようにローマ教皇をリーダーとして全世界の教会がきちんとまとめ上げられた一枚岩のものではなく、各地の独立した教会がゆるやかに手を結びあっているにすぎません。しかし強力なリーダーシップがないからと言って、意見の違いや聖書解釈の違いで幾つもの教派に分裂してきたプロテスタント諸教会とは異なり、正教信仰と使徒からの教会の姿をすすんで分かち合うことによって「正教会」としての一致を保ち続けてきました。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://agoya-orthodox.com/ja/正教会とは.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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今日は正教会のラザリのスボタ
Saint Lazarus the friend of Jesus
今日は正教会のラザリのスボタ。
イイススの友人で、イイススによって蘇らされた人物·ラザリ(ラザロ)の復活を記憶する日です。
伝承によると、後にラザリはキプロス教会の初代主教になったようです。
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今日が記憶日のレスボスの聖致命者ラファエル、ニコライ、イリニの伝承がすごく興味深かったので紹介したいと思います
Saints Raphael, Nickolas and Irine the Holy Martyrs on Lesbos Island, Greece (+1463)
今日が記憶日のレスボスの聖致命者ラファエル、ニコライ、イリニの伝承がすごく興味深かったので紹介したいと思います。1959年、レスボス島のミティリニではある小さい聖堂の修復工事が行われていました。
ある日、工事現場で聖人の不朽体(聖遺物)と思われる遺体が発見されました。
その日の夜、多くの島民の夢に聖人たちと生神女が現れ、その遺体が誰のものなのかを語りましたが、不思議なことに皆同じ夢を見たというのです。
その夢によると、その遺体は致命した司祭ラファエル、輔祭ニコライ、そして少女イリニでした。
彼らは1463年、生神女に捧げられた修道院で暮らしていたところ、島を侵略したオスマン軍に捕らえられ、拷問の末致命しました。
最初は聖ラファエルの不朽体だけ発見されましたが、住民たちの見た夢を根拠に捜査が進められ、1960年頃には聖ニコライ·聖イリニの遺体も発見され、聖堂に安置されました。
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日本の聖ニコラス (+1912年2月16日)
Saint Nickolas Kasatkin of Japan
ニコライ (日本大主教)
ニコライ(修道誓願前の姓:カサートキン、 1836年8月1日(ロシア暦) – 1912年2月16日)は日本に正教を伝道した大主教(肩書きは永眠当時)。日本正教会の創建者。正教会で列聖され、亜使徒の称号を持つ聖人である。
「ロシア正教を伝えた」といった表現は誤りであり(後述、ニコライ本人も「ロシア正教を伝える」のではなく「正教を伝道する」事を終始意図していた。
ニコライは修道名で、本名はイワン·ドミートリエヴィチ·カサートキン。日本正教会では「亜使徒聖ニコライ」と呼ばれる事が多い。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。
神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属聖堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり、日本で永眠した。
生涯
初期
スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザの輔祭、ドミトリイ·カサートキンの息子として生まれる。母は5歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー·ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。
在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル·パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。ミラ·リキヤの奇蹟者聖ニコライは東方教会において重視される聖人であり、好んで聖名(洗礼名)·修道名に用いられるが、ニコライも奇蹟者聖ニコライを守護聖人として「ニコライ」との修道名をつけられている。
函館時代
翌1861年に箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、元大館藩軍医の木村謙斉から日本史研究、東洋の宗教、美術などを7年間学んだ。また、仏教については学僧について学んだ。
ニコライは慶応4年4月自らの部屋で密かに、日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨、函館の医師酒井篤礼、南部藩出身浦野大蔵らに洗礼機密を授けた。この頃、木村が函館を去った後の後任として新島襄から日本語を教わる。新島は共に『古事記』を読んで、ニコライは新島に英語と世界情勢を教えた。
懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻·旧約の一部)の翻訳·伝道を行った以後、精力的に正教の布教に努めた。
明治2年(1869年)日本ロシア正教伝道会社の設立の許可を得るためにロシアに一時帰国した。ニコライの帰国直前に、新井常之進がニコライに会う。
ニコライはペテルスブルクで聖務会院にあって首席であったサンクトペテルブルク府主教イシドルから、日本ロシア正教伝道会社の許可を得ることができた。1870年(明治3年)には掌院に昇叙されて、日本ロシア正教伝道会社の首長に任じられた。ニコライの留守中に、日本では沢辺、浦野、酒井の三名が盛んに布教活動を行った。
明治4年(1871年)にニコライが函館に帰って来ると、沢辺の下に身を寄せていた人々が9月14日(10月26日)に洗礼機密を受けた。さらにニコライは仙台地方の伝道を強化するために、小野荘五郎ほか2人を派遣した。ニコライは旧仙台藩の真山温治と共に露和辞典の編集をした。
東京時代
明治4年12月(1872年1月)に正教会の日本伝道の補佐として、ロシアから修道司祭アナトリイ·チハイが函館に派遣された。明治5年ロシア公使館が東京に開設されることになった。函館の領事館が閉鎖されたが、聖堂は引き続き函館に残されることになったので、ニコライはアナトリイに函館聖堂を任せて、明治5年1月に築地に入った。ニコライは仏教研究のために外務省の許可を得て増上寺の高僧について仏教研究を行った。
明治5年(1872年)9月に駿河台の戸田伯爵邸を日本人名義で購入して、ロシア公使館付属地という条件を付け、伝道を行った。明治5年9月24日東京でダニイル影田隆郎ら数十名に極秘に洗礼機密を授けた[注釈 1]。
明治7年(1874年)には東京市内各地に伝教者を配置し、講義所を設けた。ニコライは、神奈川、伊豆、愛知、などの東海地方で伝道した。さらに京阪地方でも伝教を始めた。
明治7年5月には、東京に正教の伝教者を集めて、布教会議を開催した。そこで、全20条の詳細な『伝道規則』が制定された。
明治8年(1875年)7月の公会の時、日本人司祭選立が提議され、沢辺琢磨を司祭に、酒井篤礼を輔祭に立てることに決定した。東部シベリアの主教パウェルを招聘して、函館で神品会議を行い、初の日本人司祭が叙任された。このようにニコライを中心に日本人聖職者集団が形成された。さらに、正教の神学校が設立され、ニコライが責任を担った。
明治9年(1876年)には修善寺町地域から岩沢丙吉、沼津市地域から児玉菊、山崎兼三郎ら男女14名がニコライから洗礼を受けた。
明治11年(1878年)、ロシアから修道司祭のウラジミール·ソコロフスキーが来日して、ニコライの経営する語学学校の教授になり、明治18年までニコライの片腕になった。
明治12年(1879年)にニコライは二度目の帰国をし、明治13年に主教に叙聖される。その頃の教勢は、ニコライ主教以下、掌院1名、司祭6名、輔祭1名、伝教者79名、信徒総数6,099名、教会数96、講義所263だった。同じ年、正教宣教団は出版活動を開始し、『正教新報』が明治13年12月に創刊された。愛々社という編集局を設けた。
明治13年(1880年)イコンの日本人画家を育成するために、ニコライは山下りんという女性をペテルブルグ女子修道院に学ばせた。3年後山下は帰国し、生涯聖像画家として活躍した。
明治15年(1882年)に神学校の第一期生が卒業すると、ロシアのペテルブルグ神学大学やキエフ神学大学に留学生を派遣した。
明治17年(1884年)に反対意見があり中断していた、大聖堂の建築工事に着手して、明治24年に竣工した。正式名称を復活大聖堂、通称はニコライ堂と呼ばれた。
明治26年(1893年)ニコライの意向により、女流文学誌『うらにしき(裏錦)』が出版された。明治40年まで存続し明治女流文学者の育成に貢献した。
明治37年(1904年)2月10日に日露戦争が開戦する前の、2月7日の正教会は聖職者と信徒によって臨時集会を開き、そこでニコライは日本に留まることを宣言し、日本人正教徒に、日本人の務めとして、日本の勝利を祈るように勧めた。
内務大臣、文部大臣が開戦直後に、正教徒とロシア人の身辺の安全を守るように指示した。強力な警備陣を宣教団と敷地内に配置したので、正教宣教団と大聖堂は被害を受けることがなかった。
神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。
不朽体
1970年、谷中墓地改修の際に棺を開けると不朽体が現れた。同年、ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒·大主教·ニコライ」、日本の守護聖人として列聖した。日本教会が聖自治教会となったのはこのときである。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれる。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)。
ニコライが伝道した「正教」
ニコライが「ロシア正教を伝えた」とする媒体が散見されるが、「ロシア正教会」「ロシア正教」は最も早くに見積もっても1448年に成立した独立正教会の組織名であり、教会の名ではない。「正教を伝えた」が正しい表現である。ニコライは「(組織としての)ロシア正教会に所属していた」とは言えるが、あくまで「正教を伝えた」のであり、「ロシア正教会」という「組織」を伝えた訳ではない[注釈 2]。
正教会は1カ国に一つの教会組織を具えることが原則であり各地に正教会組織があるが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会に教義上、異なるところは無く、相互の教会はフル·コミュニオンの関係にあり、同じ信仰を有している。
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聖ニコライの讃詞
Hymn of Saint Nikolai Kasatkin of Japan (+1912)
使徒と等しく同座なる者
忠実にして神智なるハリストスの役者
聖なる神に選ばれたる笛
ハリストスの愛に満ちたる器
我が国の光照者 亜使徒大主教聖ニコライよ
爾の牧群のため 及び全世界のために
生命を保つ聖三者に祈り給え
ソース:
ORTHODOX SENDAI
日本ハリストス正教会教団
東日本主教々区宗務局
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日本の正教会
Orthodox Church in Japan
正教会の信仰は、天皇の分野で日本の聖ニコラス(修道院のニコライにおけるイワンDmitrievicカサトキン1836年から1912年)を通過した。1861年、彼は北海道日本の島にHakadateのロシア領事館の司祭として来た。日本は軍事知事、将軍によって支配その時だった。彼らは、16世紀ポルトガルのイエズス会による最初のキリスト教の宣教師の成功の後、持っていた 世紀、キリスト教の信仰1614-1873の職業は禁止。それ以来、すべての日本のキリスト教徒は、過酷な迫害と弾圧にさらされた。それにもかかわらず、日本の長期Kakureのキリシタン(=秘密キリスト教徒)によって参照された地下で観測キリスト教のコミュニティを、散乱。このような状況にもかかわらず、日本人はHakadateに礼拝堂正教会サービスに参加しました。1864年、日本初の正統派の洗礼を受けた。離れて彼の家にいくつかの簡単なの訪問から、日本で1904年から1905年に日露戦争時にもそう、彼の人生のセントニコラスだった。これは、全国の1861から正統派の信仰を広め、日本正教会も献堂最初の司教だった。1863年にHkadateの司教は、首都東京に移動しました。そこに、復活大聖堂は1891年に献堂された、1884年に建てられました。セントニコラスは、彼の群れの、常に継続的な宣教師の熱意を成長させる特別な例示的な方法の羊飼いに充填した。1886年に1万人以上の正統派キリスト教徒のために日本にいた。でも、彼の非キリスト教の仲間の市民に、彼は高い評価を楽しんだ。このように、いわゆる「ニコラスの家」を意味広く正教会ニコライ-DO。セントニコラスは、言語のために良い感触を持っていたし、非常に高度なレベルで日本語を勉強。そこで彼は、Triodion、Pentekostarion、季節の礼拝、詩篇と日本への教会の賛美歌の本を空腹時、新約聖書を翻訳し、正統派の信仰の彼の忠実な深いrootednessの基礎を作成しました。1970聖ニコラス聖人の多数はカウントを埋葬し、「対等の使徒」の称号を持つ昇る太陽の国で彼の布教活動のために授与されました。
日本での自治正教会は3教区に分かれています。東京大司教区は、東京の第一教主、メトロポリタンダニエル(Nushiro)によって、日本全体で向かっている。彼は仙台東日本教区と京都で西日本の教区の司教によって補助される。それは、正統派の神学校や東京の小さな修道院をexestiert。聖ニコラス立っの伝統では、日本の正教会、新約聖書と詩篇、および多くの本は典礼使用するためのもので、正統派の信仰に忠実を指示する。セミナーでは、正教会の新聞「聖教時報」と正統派の本の大部分は公開され、印刷されます。今日、日本正教会は、すべて日本のキリスト教徒の約3%である約30,000の信者を持っています。北の島、北海道で最もであるそのうちの約150正教会の教会を管理する30司祭と助祭5。
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日本への伝道
Evangelism to Japan
正教は日本に1861年(文久元年)、ロシアの修道士ニコライによって伝道されました。最初の教会が函館、のちに東京、神田に拠点を移し、東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立しました。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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名古屋への伝道
Mission in Nagoya, Japan
1874年(明治7年)、桶屋町(今の伏見あたり)で「生神女福音教会」として集会を始めました。明治30年頃富士塚町に土地を購入して移転します。日露戦争時には名古屋の各所にたくさんのロシア人捕虜が収容されましたが、日本家屋の小さな教会が捕虜たちの心のよりどころとなりました。大正12年に同地に総2階の聖堂を建設しましたが、第2次世界大戦で焼失し、1949年昭和区山花町に移転しました。1972年に規模を拡大して同地に再建され、やがてそこも手狭となり2006年、市内昭和区山脇町の現在地に移転新築を決定し、2010年1月11日、成聖式を挙行し、新しい地での活動を開始しましたました。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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建物の特徴
Church Architecture
日本では、半円のドームが重なる一九世紀のロシア·ビザンティン様式のニコライ堂、聖職者でもあった建築家河村伊蔵のデザインによる豊橋ハリストス正教会(木造)、函館ハリストス正教会(石造)が正教会建築として有名です。今回名古屋では、正面三連、側面四連のヴォールト屋根にタマネギ型のクーポールを載せた中世ロシアの聖堂建築様式を取り入れました。鉄筋コンクリート造ですが、内部は木の板をたんねんに貼り合わせ、ビザンティン様式の輪型のシャンデリアとともに柔らかい雰囲気をかもし出しています。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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神現聖堂の名称
Theophany
正教会の聖堂はイイスス·ハリストス(イエス·キリスト)や生神女マリアの祭日や聖人の名前をいただきますが、「神現」とは、ヨルダン川で洗礼を受けた神の子イイススに、天が開け聖神(聖霊)がくだり、神、父が「これはわたしの愛する子」と告げ、世の救いのために至聖三者(三位一体)の神がご自身を啓示したできごとに由来します。(聖書マタイ伝三章など)
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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聖ニコライの来日と正教伝道
Saint Nikolai’s (+1912) visit to Japan and Orthodox missionary work
日本に正教を伝えたのは1861年(文久元年)、函館のロシア領事館付司祭として来日した聖ニコライ(イオアン·デミトリヴィチ·カサートキン)に始まります。初代の信徒は東北出身者が多く、そのために東北の地には正教会が数多く点在しています。聖ニコライは函館から東京に移り伝道の拠点としました。日本人聖職者の選立、神学教育機関の設置、出版事業などを興し活発な宣教活動により教会は全国に拡大していきました。
ソース:
https://www.orthodox-sendai.com
https://www.orthodox-sendai.com/history
ORTHODOX SENDAI
日本ハリストス正教会教団
東日本主教々区宗務局
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ニコライ堂(東京復活大聖堂教会)の公式サイト。ニコライ堂は正教会の教会です。
http://nikolaido.jp
Official web-site of Holy Resurrection Cathedral in Tokyo (Nikolai-do), JAPAN
Japanese Edition
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日本ハリストス正教会
https://www.facebook.com/Japanese-Orthodox-Church-日本ハリストス正教会-257142291000032/
Japanese Orthodox Church
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豊橋ハリストス正教会·聖使徒福音記者マトフェイ聖堂
St. Matthew the Evangelist Orthodox Church in Toyohashi, Japan
問い合わせ
〒440-0806 愛知県豊橋市八町通り3丁目15、 Tel.0532-54-0434
Haccho-dori 3-15, Toyohashi, Aichi
1875年開教。現聖堂は1913年建立。設計河村伊蔵、国指定重要文化財。
アクセス、豊橋市電、市役所前下車。徒歩3分。
管轄司祭 イサイヤ 酒井以明
電子メール spnova@mx3.tees.ne.jp
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http://orthodox-jp.com
http://orthodox-jp.com/westjapan/churchlist.htm
西日本主教区各地の教会
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正教会 Orthodox Church
正教会(Orthodox Church)は語源をたどると「オルソ(正しい)」「ドクサ(教え·讃美)」の意味である。「正しい教え」としては神·救世主·この世·人間の何なるかに答え、「正しい讃美」としては聖なる祈りの形を保持する教会である。
「東方教会」「ギリシャ正教」とも呼ばれる正教会は、ローマ·カトリック教会やプロテスタント諸教会とは異なる伝統の中で、初代教会からの聖伝を確かに受け継いで今日に至っている。
http://orthodoxjapan.jp
ORTHODOX JAPAN
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ことばでは説明できません
I can not explain it in words
でも、いくら言葉でご説明しようとしても、正教はうまく伝えることはできません。正教は人間が頭で考え出した抽象的な「教義」でも、「歴史」でも、宗教「文化」でも、教会組織でもなく、教会生活の中に生きて働くハリストスの復活のいのちそのものです。教義も確立せず、歴史の積み重ねもなく、まして文化としてはまったく未熟で、しっかりした教会組織もなかった時代、そして現代においても、信徒ひとりひとりを生かしているのはこのハリストスの復活のいのちそのものです。いのちは言葉では伝わりません。体験の中からしかつかめないし、体験を通じてしか伝えられないのです。
友に呼びかけたフィリップにならって「来て、見てごらん」(ヨハネ福音1:46)とお呼びかけするほかありません。
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プロテスタントのもうひとつの特徴が、「千差万別」
The diversity of Protestantism
プロテスタントのもうひとつの特徴が、「千差万別」。
個々の教派·教団によって、驚くほど意見が違う。真反対なこともしばしば。
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日本正教会
http://orthodoxjapan.jp
The Orthodox Church in Japan
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主の祈り
Lord’s Prayer – Pater noster
マタイによる福音書 6 [口語譯]
だから, あなたがたはこう 祈りなさい, 天にいますわれらの 父よ, 御名があがめられますように.
御國がきますように. みこころが 天に 行われるとおり, 地にも 行われますように.
わたしたちの 日ごとの 食物を, きょうもお 與えください.
わたしたちに 負債のある 者をゆるしましたように, わたしたちの 負債をもおゆるしください.
わたしたちを 試みに 會わせないで, 惡しき 者からお 救いください.
アーメン.
ソース:
http://orthodoxchurchinjapan.blogspot.com
日本正教会 ORTHODOX CHURCH IN JAPAN
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キリストの体(聖体血)を中心にした奉神礼共同体
ビザンティン時代に現在のかたちがほぼ確立した奉神礼(礼拝)には、初代教会の礼拝のかたちと精神性がしっかり保たれています。
中心となるのは聖体礼儀です。これは、神学的な理解や祈りのかたちは異なりますが、カトリック教会でミサ、プロテスタント教会で聖餐式といわれるものにほぼあてはまります。主イイスス·ハリストスの復活を「記憶」(キリスト教独自の意味があり「現実に今ここに在るものとして想い起こす」と言えば近いでしょうか)する毎日曜(主日)と諸祭日を中心に行われます。
「主が来られる時(再臨)に至るまで(コリント前書11:26)」、「私を記念(記憶)するためこのように行いなさい(ルカ伝22:19)」という教えを守り、主日ごとの聖体礼儀に集い、主のお体と血としてのパンとぶどう酒(聖体·聖血)を分かちあうことが、教会の基本的なつとめであると理解されています。一つのパンから、また一つの爵(カップ)から聖体聖血を分かち合うことを通じて、信徒はハリストス·神と一つとなると同時に、互いが一つとなり、ハリストスが集められた「新たなる神の民の集い·教会」が確かめられます。
この神との交わりの体験の積み重ねこそ信徒の成長のみなもとであり、そこで受ける神の恵みがなければ、「よい生き方」をめざすどんなまじめな人間的な努力も実を結びません。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://agoya-orthodox.com/ja/正教会とは.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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ケイリー=ヒロユキ·タガワ – 2015年11月に彼は正統派キリスト教の洗礼を受け – 3ビデオ
Cary-Hiroyuki Tagawa
生まれは東京都東麻布。父親は米軍に勤務する日系二世、母親は宝塚出身の女優である。両親ともに日本人であるが、5歳でアメリカに移住してアメリカ国籍を持っている。高校生の時から演劇に興味を持ち、南カリフォルニア大学で学んだ。この時、早稲田大学に1年間留学したという。
叔父は歌手の旗照夫、俳優の旗昭二(いずれも母親の弟)、また従弟に中山千彰(テレビプロデューサーで、元ニッポン放送ディレクター)がいる。現在はハワイに住み。
2015年11月に彼は正統派キリスト教の洗礼を受け。
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正教会では、主教たちはみな同等です
In the Orthodox Church all the Bishops are equal
正教会では、主教たちはみな同等です。主教が代表する一つ一つの教会は、それぞれが神さまの祝福のもとにある「完全なハリストスの体」であって優劣はないからです。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://nagoya-orthodox.com/ja/中学生の質問にお答え.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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東方から全世界へ
From the East to the whole world
正教会は東方正教会とも呼ばれます。ローマ·カトリック教会やプロテスタント諸教会が西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、キリスト教が生まれた中近東を中心に、ギリシャ、東欧から、ロシヤへ広がりました。20世紀になり共産主義革命による迫害を受け、多くの信徒や聖職者が世界各地に散らばっていきましたが、その結果西ヨーロッパやアメリカをはじめ世界各地に教会が設立され、西方教会しか知らなかった人々にも伝道されるようになりました。現在では移民や亡命者の子孫だけでなく、カトリックやプロテスタントからの改宗者たちも大勢出るようになり、欧米主導の現代文明の行き詰まりとともに停滞する西方キリスト教に新鮮な刺激を与えています。
日本へは江戸時代末期、函館のロシヤ領事館づきの司祭として来日したニコライ(「亜使徒大主教聖ニコライ」として聖人の列に加えられています)によって伝道されました。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://agoya-orthodox.com/ja/正教会とは.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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国内正教関連サイトへのリンク集
http://nagoya-orthodox.com/ja/allcategories-ja-jp/10-ja-jp.html
Links to domestic Orthodoxy related sites
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正教会のお葬式
Orthodox funeral
日本人に最もなじみ深いお葬式はいわゆる「仏式」のお葬式でしょう。祭壇に置かれたお棺を前に、僧侶が仏教の深遠な真理を記したお経を唱え、死者に真理の「悟り」を促し、「成仏」させます。「仏」とは「悟った者」という意味です。人は真理を知らないから迷い苦しむとされます。だから真理を悟れば救われるというわけです。
これに対しキリスト教のお葬式、特に私たち正教会のお葬式は「祈り」です。
私たち人間はたとえ真理を知っていても、真理を生きられません。自己中心的な生き方で神に背き、神が人に与え、その限りない深まりへとお招きになる、いきいきとした神との交わりの生活を失ってしまったからです。そこで、神はご自身のひとり子 を人としてこの世に遣わしました。ハリストス(救世主キリスト)です。悔い改め、信じ、洗礼を受けて、人となった神·ハリストスの人間性を分かち合い、人ほんらいの生き方を回復する道がさしだされました。この救いへの招きに応えたのがクリスチャンです。しかし、神に向かう者を妨げようと躍起になる悪魔の誘惑はまだ神への道の途上にあり、以前の罪深さの影響をひきずる私たちに、洗礼の後も罪を犯させます。クリスチャンは神の赦しを信じ、何度でも悔い改め、何度でも立ち上がりますが、完成への途上でこの世を去らねばなりません。もはや自分の口、自分の体で神に祈り、人生の歩みの中で悔い改めの実りを生み出してゆくことはできません。
そこで私たちは、「愛」である神に、神への愛をもって、永眠者への愛に突き動かされて、そして、教会という「愛の交わり」の中にあって、祈ります。どうか、私たちの愛する永眠者の罪を赦し、あなたのみもとにしばし安らわせ、やがて世の終わりに実現される永遠の神の国に、輝かしい肉体をもってよみがえらせ給えと。
これが葬儀や記憶祭など、正教会が死者の為に行う礼拝の意味です。
永眠者の眠る棺は、永眠者が私たちの愛の内から、神の愛へとゆだねられ、引き渡されることを象徴して、参会者の中央に、神の臨在を示す至聖所(外部会場ではハリストスの聖像や十字架が置かれる方向)へ向けて置かれます。棺は神の国への旅を安全に守る船です。
また祈祷中、参会者は、十字架で殺されたハリストスが三日目にその初穂として示し、やがて私たち神を信じる者すべてが与ることになる永遠の生命への復活を象り、立って祈ります。手に持つローソクは私たちの心に灯された信仰と、私たちを導く光·ハリストスを表します。
そして何より、参会者が一体となって祈ることを通じ、永眠者と私たちが、やがてそこによみがえり、そこで再び手を取りあい頬を寄せ合う、神の国の愛の集いへの希望を確かめ合います。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://nagoya-orthodox.com/ja/正教会のお葬式.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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イエス·キリスト: 彼なくしてキリスト教とは言えないし、彼なくしてキリスト教の論理は通らない。
Jesus Christ: Without Him there is not Christianity
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正教会とは About Orthodox Church
正教会は東方正教会とも呼ばれます。ローマ·カトリック教会やプロテスタント諸教会が西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、キリスト教が生まれた中近東を中心に、ギリシャ、東欧から、ロシアへ広がりました。
20世紀になり共産主義革命による迫害を受け、多くの信徒や聖職者が世界各地に散らばっていきましたが、その結果西ヨーロッパやアメリカをはじめ世界各地に教会が設立され、西方教会しか知らなかった人々にも伝道されるようになりました。現在では移民や亡命者の子孫だけでなく、カトリックやプロテスタントからの改宗者たちも大勢出るようになり、欧米主導の現代文明の行き詰まりとともに停滞する西方キリスト教に新鮮な刺激を与えています。
日本へは江戸時代末期、函館のロシア領事館づきの司祭として来日したニコライ(「亜使徒大主教聖ニコライ」として聖人の列に加えられています)によって伝道されました。
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キリスト教の土台
イイスス·ハリストス(イエス·キリストの日本正教会訳)の十字架刑による死と三日目の復活という出来事を「神による人間の救い」として直接体験し、その証人として世界中に伝えたお弟子たちのことを特別に「使徒」と呼びます。正教会はこの使徒たちの信仰と彼らから始まった教会のありかたを、唯一正しく受け継いできたと自負します。
正教会は中世西ヨーロッパの「スコラ神学」や近代の宗教改革とも無縁でした。キリスト教会は現在は多くの教派に分裂していますが、中世のある時期までは「一つの聖なる公なる使徒の教会」(ニケヤ·コンスタンティノープル信仰告白)としてほぼ一致していました。正教会はこの東西教会が一つにまとまっていた時代に、五世紀間にわたって合計七回開催された全教会の代表者たちによる会議(「全地公会議」325年~787年)で確認された教義や教会組織のあり方、教会規則、さらに使徒たちの時代にまでさかのぼることのできる様々な伝統を切れ目なく忠実に守り続けています。正教会と他の諸教会が「分裂」したのではなく、正教会から他の諸教会が離れていったというのが「教会分裂」の真相です。
教義的には、人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙するという古代教会の指導者(聖師父)たちの姿勢を受け継ぎ、後にローマ·カトリック教会が付け加えた「煉獄」·「マリヤの無原罪懐胎」·「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教え」は一切しりぞけます。またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように「聖書のみが信仰の源泉」だとも「救われる者も滅びる者もあらかじめ神は予定している」とも決して言いません。かたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を、「付け加えることも」「差し引くこともなく」守っています。
教会組織も、ローマ·カトリック教会のようにローマ教皇をリーダーとして全世界の教会がきちんと一枚岩に組織されたものではなく、各地域の独立教会がゆるやかに手を結びあっているにすぎません。しかし強力なリーダーシップがないからと言って、聖書解釈の違いや教会のあり方への理解の違いから無数の教派に分裂してきたプロテスタント諸教会とは異なり、正教信仰と使徒からの教会の姿を各教会がすすんで分かち合うことによって「正教会」としての一致を保ち続けてきました。
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キリストの体(聖体血)を中心にした奉神礼共同体
ビザンティン時代に現在のかたちがほぼ確立した奉神礼(礼拝)には、初代教会の礼拝のかたちと霊性がしっかり保たれています。
中心となるのは聖体礼儀です。これは、神学的な理解や祈りのかたちは異なりますが、カトリック教会でミサ、プロテスタント教会で聖餐式といわれるものにほぼあてはまります。主イイスス·ハリストスの復活を「記憶」する毎日曜(主日)と諸祭日を中心に行われます。
「主が来られる時(再臨)に至るまで(コリント前書11:26)」、「私を記念(記憶)するためこのように行いなさい(ルカ伝22:19)」という教えを守り、主日ごとの聖体礼儀に集い、「主ハリストスの体と血」へと成聖されたパンとぶどう酒(聖体·聖血)を分かちあうことが、教会の基本的なつとめであると理解されています。一つのパンから、また一つの爵(カップ)から聖体聖血を分かち合うことを通じて、信徒はハリストス·神と一つとなると同時に、互いが一つとなり、ハリストスが集められた「新たなる神の民の集い·教会」が確かめられます。
この領聖(聖体拝領)の体験の積み重ねこそ修道士、一般信徒を問わず信徒一人一人の神との交わりへの成長のみなもとであり、そこで受ける神の恵みがなければ、「よい生き方」をめざすどんなまじめな人間的な努力も実を結びません。
しかしどれほど言葉を重ねても正教を完全に説明し尽くすことはできません。正教は人間が頭で考え出した抽象的な「教義」でも、「歴史」でも、宗教「文化」でも、教会組織でもなく、教会生活の中に生きて働くハリストスの復活のいのちそのものです。教義も確立せず、歴史の積み重ねもなく、まして文化としてはまったく未熟で、しっかりした教会組織もなかった時代、そして現代においても、信徒ひとりひとりを生かしているのはこのハリストスの復活のいのちそのものです。いのちは言葉では伝わりません。体験の中からしかつかめず、体験を通じてしか伝えられません。
友に呼びかけたフィリップにならって「来て、見てごらん」(ヨハネ福音1:46)とお呼びかけするほかありません。
ソース:
http://orthodoxjapan.jp/seikyoukai.html
日本正教会 The Orthodox Church in Japan
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キリスト教とは、この聖書の教えに基づいて生きようとした人々の歩みそのものです
Christianity is the walk of the people who tried to live based on the teachings of the Holy Bible
キリスト教とは、この聖書の教えに基づいて生きようとした人々の歩みそのものです。新しい神の民である教会(キリスト信者の共同体)は、それぞれの時代、それぞれの文化·社会の中で、キリストに従って歩もうとしてきました。教会の使命はイエスの使命を受け継ぎ、神と人との交わり·人と人との交わりを取り戻すために働くことです。
キリストの使徒から始まる教会の2000年の歩みという土台なしに今のわたしたちの信仰はありません。この歴史の中で今の教会の祈りや信仰生活のスタイルが生まれ、育ってきましたし、教会の信仰理解も深まってきたのです。
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立つこと
聖体礼儀 Divine Liturgy
正教徒の祈りの姿勢の基本は立つことです。 ハリストスの復活と、その復活を 分自身の ものとして体験するためです。 もちろん、病弱な方·高齢者のためにイスは 少し用意されていますが、小さな子供も、幼い 時から聖堂では立つことをしつけられます。
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聖金口イオアンの聖体礼儀
http://www.orthodox-jp.com/liturgy/prayerbook/Liturgy_Gr_Sl_Jp.pdf
Divine Liturgy of St Chrysostom
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信徒の集い
聖体礼儀 Divine Liturgy
信徒は、単にそれぞれの祈りを祈るために、聖堂へ集まるのではありません。ハリストスが お集めになった「神の民の集い」をまさに体験 するために集まるのです。人間が、ハリストス によって孤独な「私」から「私たち」に再創造され たことを…
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祈りに興じる To pray
至聖三者聖セルギイ修道院
2002年2月末から3月始めにかけて、名古屋教会司祭は モスクワ郊外の至聖三者聖セルギイ修道院へ単身研修派遣されました。 教団機関誌「正教時報」に掲載されたレポートをご紹介します。 正教の奉神礼的生活の一端にでも触れていただければ幸いです。
***
伝統には誰でも近づくことができます。伝えられてきたものを忠実に再現することは根気さえあれば、いずれ誰にでも可能となります。幼い時から修行に励んでいれば、私だって今頃はいっぱしの職人でしょう。
しかし芸術にせよ、思想にせよ、生き方にせよ独自の新しい世界を創り出すのは誰にでも可能なことではありません。創造的という悪魔的な言葉にとりつかれ、どれほど多くの人々が人生を空費してしまったことでしょう。
生きること、そして日々の生活には安定したかたちが必要です。まずそのかたちを生活の律動の中で、共に生きる人々と分かち合うことが、生きることの喜びや楽しさへの誰にでも開かれた入り口です。私たちの不幸はそのかたちを失ってしまったことです。
二月末から三月始めにかけ十日間、モスクワから数十キロ北にある至聖三者·聖セルギイ大修道院で過ごしました。七百年近い歴史を持つ、つねにロシア正教会の中心にあった修道院です。巡礼者や観光客への活発な対応へのいそがしさという外皮をはぎ取れば、「伝統」といったら他にどこで探せるのかというほど伝統的な暮らしがそこにあります。
朝の五時半、聖セルギイの不朽体を前にした聖人への感謝祷から始まり、徹夜祷が永眠修道士たちへのリティアで終わる夜八時近く(日曜は徹夜祷が長く九時頃)まで、奉神礼を中心にした生活が毎日厳格に繰り返されます。修道院側から丁重にも立派なゲストルームを提供されたため体験できませんでしたが、おそらく修道士たちの修室でも祈りや労働を中心にした伝統的な生活が規則正しく実践されていることでしょう。鈴の音で始まり、聖人伝の誦読の内に「着々と」進む大食堂での食事にその片鱗をかいま見たと言えるかもしれませんが。
しかし、そこでは、伝えられたかたちに縛り付けられ、凍り付いてしまった人々は見受
けませんでした。もちろん勝手気ままな無秩序な生活があるのでもありません。伝統やかたちがあるがゆえに人々は逆に解き放たれているとでも申しましょうか。
滞在二日目の日曜、見事な英語を話す修道女で、私のために大修道院内の案内をしてくれたセルゲイア姉に、「これが鐘楼です」とうながされたとき、何の気なしに自分が神学生時代にニコライ堂で鐘を打っていたことを話しました。すると彼女は一人の修道司祭を引っ張ってきて「こんな訳だから夕方の打鐘の際にゲオルギイ神父を鐘楼に案内してやって欲しい」と頼んでくれました。その修道司祭コルニリイ神父は相好をくずして、繰り返し「四時四十五分だよ」と念押ししました。
約束の時間に行くと、すでに鐘楼へ招かれた巡礼者や子供たち十数人に囲まれて、こぼれるような笑顔のコルニリイ神父が待っていました。「こんなよいものを、こんなにたくさんの人たちに見せてあげられて、今日はなんてステキな日なんだろう」と言わんばかりです。手を取り合い、ひげ面で抱き合うや、ただちに出発です。工事中の場所もあり足場も悪い(危険と言った方が正確)階段を、弾むようにのぼっていく神父について、数分かかってようやく鐘楼に着きました。息切れでしばらく声も出ません。すでに若い修道士が大鐘を打って います。眼下には大修道院が隅々まで見下ろせます。大修道院をとりかこむ門前町、人口五万人ほどのセルギエフ·パッサードの市街の向こう側は、森や教会の金色の丸屋根が散見されるだけの大雪原です。そのはるか彼方では、もう灰色の空と雪原との区別はできません。
もう一人の修道士が時計をちらっと見て、大小の鐘が十数個並んでいる場所に上がり、規則正しい大鐘のテンポに滑り込むように幾つもの鐘を軽やかに奏ではじめました。修道士は大雪原の彼方を見つめながら、胸を張り、両手両足を繰って華やかに、力強く、そして繊細に複雑な響きを打ち鳴らします。その時、私は彼の姿に、伝えられた生活と伝えられた祈りのかたちに「興じる」幸福な人間を見たような気がしました。すぐにその姿は、日本なら「もし事故でもあったら誰が責任をとるんだ」としか誰も考えないような、ブリキの切れっ端や木っ端が散在した鐘楼への階段を、「ここは危ない」「あそこは気をつけて」とにこにこしながら私たちを引率していったコルニリイ神父の姿にも重なりました。さらに身振り手振りよろしく、流ちょうな英語でこの大修道院の聖なる歴史や無数の聖遺物を紹介してくれた、知的でしなやかな、ユーモアあふれるセルゲイヤ姉にもそのイメージはつながっていきました。彼女には修道女という言葉で連想しがちな「思い詰めた敬虔ぶり」など気配にもありませんでした。
修道院での十日間は、このような連綿と伝えられてきた祈りの生活に「興じる」人たちの発見の日々だったとも言えるでしょう。
鐘楼から大急ぎで向かった、二千人は収容できるかと思われるセルゲイ聖堂ではすでに晩祷が始まっていました。修道士たちは立っていたり座っていたり。誰かが立ち上がれば、他の誰かが座るということもあります。それをいちいち咎める人など一人もいません。
朗々とスティヒラの句を読み上げる司祭も、それに答えて交互に唱う左右の聖歌隊も「楽しそう」なこと。神学生や神科大学の学生たちに修道士も混じる若さみなぎる聖歌隊です。互いに競い合う様子が手に取るように伝わります。自分たちの部分を元気よく歌い終えると、それを聞いていた向かい側の聖歌隊に向かい「どんなもんだ」とガッツポーズさえ送りかねない張り切りようです。
宝座への接吻のために至聖所へ入ると、ポリエレイに備えて司祭たちが金色の祭服をまとって待っています。若い司祭たちが挨拶に来て、「こんなよい所へ、遠いところからまあ、よく来たじゃないか」…そう言っているかのように、ぎゅっと手を握り、ガバッと頬を寄せ、ひしと抱きしめてきます。高座の長いすに座っているミトラをかぶった年輩の高位司祭たちは、なにやら楽しげに小声で頷き合いながら、豊かな白い髭をしごいていたりします。恰幅のよい掌院とおぼしき神父が私に目をとめ、歩み寄ってきてロシア語で話しかけました。多分名前を聞かれたのだろうと「ゲオルギイ」と答えると、至聖所の奥からエピタラヒリとフェロンを持ってきて「アチェツ·ゲオルギイ。ポリエレイ(だから祭服を着なさい)」と差し出してくれました。その時のゆったりと包み込むような笑顔にほっとしたこと。やはり相当緊張していましたから。
そんな至聖所内には、「今日も神さまを美しい祈りで讃えさせていただける」といった、子供っぽいとも言えるナイーブな期待感が溢れています。ここにも伝えられた祈りの生活に「興じる」人たちがいました。
しかしもっと印象的だったのは、ポリエレイを終えて聖所に戻ったときでした。イコノスタスの前に置かれた幾つもの燭台のローソクをうやうやしく世話している初老の修道士がいます。短くなったものを燭台のすぐ下に置いてある箱から長いものに取り替え、となりのローソクの熱で曲がったものは、引き抜いて、冷ましながら、ゆっくり何回かしごき真っ直ぐにのばして差しなおします。それを見ている私の視線に気づいたのか、彼はすっと胸を張り、こちらに顔を向け、口元に何とも言えない誇らかな笑みを浮かべました。次の日も、また次の日も修道院滞在中ずっとそれは変わりませんでした。これまでも、これからも同じでしょう。その誇らかさは、何ごとも上長に絶対服従して、従順に、謙遜に…、といった修道士の紋切り型のイメージでも、下積みの人たちにありがちな「俺はもう何十年この仕事を受け持ってきたんだ」といった押しつけがましいプライドとも違うものでした。やはり、祈りに「興じる」、その無条件のしあわせに自分も与れることへの喜びの表現でしょう。彼の仕事が聖歌隊やまして聖職者たちの華やかな仕事ではなかったのでなおさら、彼の誇らかさは、正教会が祈りを「奉神礼」、ギリシャ語でリトゥルギア、すなわち神の民の「仕事」と呼ぶ意味を実感させてくれるものでした。そういえば、四時間近く十字を切り叩拝する以外にはほとんど同じ場所で立ちつくすばかりの千人以上の会衆も、たとえ肉体は苦痛でも心では、仕事の一翼を担う者として「正教会の伝える『立って祈る』というかたち」に「興じて」いるのではないか、そんな思いすら浮かびました。
例をあげればきりがありませんが、祈りに興じる人たちを他にもたくさん発見しました。奉神礼の場だけではなく、そこでは生活全体が祈りへの備えとして「祈りの生活」です。この大修道院全体が、祈りに、すなわち生活に興じているといってもよいでしょう。
しかし、この発見は大修道院だけでのことではありませんでした。大修道院を辞して二日後、帰国の日の朝、モスクワの友人が通う教会の聖体礼儀に与りましたがも、そこにも祈りに興じる人たちがあふれていました。古い聖堂の修復作業に信徒が何年も協力を続けているという、内部に足場を組んだままのこの小さな教会も、やはり祈りに興じていました。
しかし私は、「やっぱりロシアは…」と言いたくてこんなことを申し上げているのではないのです。
帰国して三日目、充分に疲れが取れないままに立った名古屋教会の聖体礼儀、ここにもはやり「祈りに興じる」なつかしい仲間たちがあふれていました。尋ねてきた人が、なんと教会の門前から「道に迷ってしまいました」と携帯をかけてきたことがあるほどのつつましい会堂です。しかし、信徒全員が無事領聖した後、ポティールを掲げて堂内を見渡したとき、堂内全体が喜びで輝いていました。大修道院の聖体礼儀にあった喜び、モスクワの町の教会にあった同じ喜びが、ここにもありました。これまでにもあったし、これからもあり続けるでしょう。
おそらく日本中の正教会で、小さな教会でも大きな教会でも、正教徒なら誰でも知っている、神さまの前に子供らしいキマジメさで奉神礼を献げさせていただける、言いかえれば祈りに興じさせていただける喜びがあふれているはずです。伝統的な正教国の教会にも、伝道教区の小さな集いにも、世界中の正教会に日曜日を待ち望む人たちの日曜日に向けた生活がいきづいているはずです。
これこそハリストスを愛しその尊体血を分かち合う人々の集いに溢れている聖神が、私たちに贈ってくれる至福です。寒風吹き抜ける鐘楼でコルニリイ神父が、暗い聖堂内でローソク係の修道士が、あらためて、またハッキリと確かめさせてくれた至福です。
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どうやって霊的弱点から逃れるか
Q&A
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
Should it be better to truncate
all faults or bad hurts immediately or is it wisely to overcome little by little?
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――長老様、欠点や悪習はすぐに全部切り捨ててしまうのがよいですか、それとも少しずつ克服していくのが賢明でしょうか。
――もちろん出来ればすぐに切り捨てるのがよい。でないと大きくなるいっぽうじゃからの。ここで手をこまぬいていてはいかん。冬に川渡りをすることを考えてみるがよい。凍えてしまわないうちにさっさと渡ってしまおうとするではないか。誘惑もそれと同じで、ためらいは無用じゃ。
ソース:
https://japanheavenonearth.wordpress.com
地球上の天国 – 日本 – 正教会
HEAVEN ON EARTH – JAPAN – ORTHODOX CHURCH
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聖イグナティ·ブリャンチャニノフ
Saint Ignatius Bryanchaninov (+1867)
聖イグナティ·ブリャンチャニノフは敬神家、多数の書を著した作家、高徳の修道士、信仰生活の教師とされ1988年に成聖者として列聖されました。彼の著作集は「聖師父の教えの本質を深く掘り下げ、聖師父の精神を受け継いでおり、現代の信徒に読み易く、分かり易いもの」とロシア正教会の公会決議文に入っています。正教会では聖師父の書いた著作を救いに与る上で大切なものとして読まれてきました。難しいことを分かり易く、分かり易いことを深く書かれた本書は聖師父の言葉から聖書の理解へと進み、信徒の信仰生活における霊的な糧となるに違いありません。
ソース:
ORTHODOX SENDAI
日本ハリストス正教会教団
東日本主教々区宗務局
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聖使徒ペトル
Saint Peter the Apostle
ペトロ (語: Petrus)(生年不明 - 67年?)は、新約聖書に登場する人物で、イエス·キリストに従った使徒の一人。シモン·ペトロ、ペテロ、ケファともいわれる。
本名はシモン(ヘブライ語読みでは「シメオン」שמעון。「シモン」は「シメオン」の短縮形)であるが、イエスにより「ケファ」(Kêpâ、アラム語で岩の断片、石という意味)というあだ名で呼ばれるようになった。後に同じ言葉のギリシア語訳である「ペトロス」という呼び名で知られるようになる。
パウロも書簡の中で、ペトロのことを「ケファ」と呼んでいる。この名はイエスが「私はこの岩の上に私の教会を建てる」と言ったことに由来している。この一節は全ての共観福音書に見られるが、ただマタイのみが「天の国の鍵」をペトロが受けるだろうとしている。
『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』によればペトロはガリラヤ湖で弟アンデレと共に漁をしていて、イエスに声をかけられ、最初の弟子になった。
『ルカによる福音書』ではイエスとの出会いはゲネサレト湖の対岸にいる群衆への説教に向かうイエスが彼の船を使った時とされる。伝承では、ペトロはイエスと出会った時には既に比較的高齢であったという。共観福音書はいずれもペトロの姑がカファルナウムの自宅でイエスに癒される姿を記しており、ここからペトロが結婚していたことが分かる。
ペトロは弟子のリストでも常に先頭にあげられており、イエスの問いかけに弟子を代表して答えていること などから、イエスの存命中から弟子たちのリーダー的存在であったことがうかがわれる。また、主イエスの変容(姿が変わって神性を示した出来事)をペトロはヤコブとヨハネの選ばれた三人だけで目撃している。
イエスの受難においてペトロは剣を抜き、大祭司の僕マルコスの右耳を切り落とすが、その後イエスを3度否認したことが福音書に書かれている。そうなることをイエスが事前に予告していたことを思い出した時「激しく泣いた」とされている。また『ヨハネによる福音書』によれば、イエスの復活時にはヨハネと共にイエスの墓にかけつけている。
『使徒言行録』ではペトロはエルサレムにおいて弟子たちのリーダーとして説教し、イエスの名によって奇跡的治癒を行っている。やがてヤコブ (イエスの兄弟)がエルサレム教団のリーダーとして活躍しはじめると、ペトロはエルサレムを離れ、各地を巡回するようになる。ヤッファでは亡くなった少女タビタを生き返らせる奇跡を行ない、また清い者·清くない者、あらゆる人々に宣教するよう幻を見て、その近くのカイサリアではコルネリウスというローマ帝国の百人隊長をイエスの道へ導いている。
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シラクサのルチア
St Lucy of Sicily, Italy
シラクサのルチア (イタリア語:Santa Lucia, 英語:Saint Lucy 伝承による生没年:283年-304年)は、聖ルチアの名で知られるキリスト教の殉教者。目、及び視覚障害者、そしてシラクサの守護聖人。
記念日は、西欧では12月13日。
『ルチア』とはラテン語で光を意味するLuxまたはLucidから派生した名前である。
確かなことは、ディオクレティアヌス帝支配下のシラクサで304年に殉教したという事のみである。彼女の犠牲はローマに広まり、6世紀には彼女を信仰の守護者として、教会全体で讃えるようになった。
ローマ人であったルチアの父が死ぬと、彼女と母エウティシアは何の後ろ盾もなかった。エウティシアは4年あまりも瀉痢に苦しんだが、ルチアは聖女シチリアのアガタの奇跡を聞きつけ、ミサに参加した。エウティシアの病が癒されるよう、2人は聖アガタの墓前で一晩中祈り続けた。いつしか母子は眠ってしまうと、ルチアの枕元に聖アガタが姿を見せ、『私がそうしたように、あなたはすぐシラクサの栄光となるのです。』と言った。エウティシアはたちまち全快した。
エウティシアはルチアを異教徒と政略結婚させようとしたが、ルチアは自身の処女を守るために、持参金を貧者への施しとしてほしいと拒んだ。エウティシアは持参金が良い遺産になると示唆したが、ルチアは逆に母を説き伏せた。自分にはより高貴な婚約者(すなわちキリスト)がいるというのである。その異教徒は思いのままにならないルチアに怒り、彼女を実はキリスト教徒であり、神への犠牲として火炙りにすべきだと密告した。ルチアを引き立てに来た兵士たちは、彼女を動かすことができなかった。ルチアは聖霊に満たされた、山のように強固な存在となっていたのである。牛の一群に彼女をつないでも動かなかった。彼女の喉元に剣を突き立てても、ルチアは自らを迫害する者たちに予言していたのである。最後の拷問として、ルチアは両目をえぐり出された。奇跡が起き、ルチアは目がなくとも見ることができた。絵画や像では、彼女はしばしば黄金の皿の上に自分の眼球を載せた姿で描かれる。
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エギナの聖ネクタリオス (+1920)
St Nektarios of Aigine Island, Greece
エギナの聖ネクタリオス
エギナの聖ネクタリオス(ギリシア語: Άγιος Νεκτάριος Αιγίνης, 英語: Saint Nektarios of Egina、1846年 – 1920年)は、正教会の聖人。日本正教会で多用される教会スラヴ語由来の転写ではネクタリイ。
修道院の設立と指導、数多くの著述、信徒の精神的指導、および数々の奇蹟によって知られる。神学者、哲学者、詩人、教育者、禁欲主義者、神秘主義者などと称されるほどの多才な面があった。歌詞は公祈祷の祈祷文によるものではないが、全世界の正教会で愛唱される聖歌『アグニ·パルセネ』(ギリシア語: Αγνή Παρθένε)を作曲してもいる。
1846年10月1日、トラキアのシリヴリアの貧しい家庭に生まれた。生まれた際の俗名はアナスタシオス·ケファラス(ギリシア語: Αναστάσιος Κεφαλάς)。14歳のとき、働きつつ教育を受けるためにコンスタンディヌーポリに移住。1866年からはキオス島の学校で教えつつそこに7年間住み、30歳で修道士となる。3年後、輔祭となり、ネクタリオスの名を与えられる。1885年にアテネ大学を卒業。大学時代から、多くの聖書註解を含む多くの著述を行う。
アレクサンドリアで司祭に叙聖され、カイロの教会に奉職。これは名誉ある職分であった。1889年に敬神の念と説教者としての実力、牧会能力が評価され、総主教ソフロニオスによりペンタポリス府主教に叙聖される。すぐにネクタリオスの人望が高まるが、その声望を妬んだ聖職者達によって噂が立てられ、噂を信じてネクタリオスの弁明を聞かなかった総主教ソフロニオスにより、弁解の機会も与えられず教会裁判の手続きも経ず、エジプトから追放される。1891年にギリシャに戻り、何年かを説教者として過ごす。
1894年にアテネ·リザリオス教会学校の校長を任ぜられ、15年間在職しこの間多くの著作をのこす。1904年には何人かの修道女の求めに応じ、エギナ島に至聖三者女子修道院を設立する。1908年12月に神学校校長の職を辞し、エギナ島の至聖三者女子修道院に一修道士として隠棲する。ここでも著述を行い、精神的指導を求めて来る近隣の人々の痛悔を聞いた。
1920年11月9日、永眠。永眠後の遺体の傍らで、重病人が快癒する奇蹟が起きたと伝えられている。埋葬式には多くの人がギリシャ·エジプト全土から訪れた。1961年4月20日に列聖。生前からネクタリオスを聖人とみる人々が多かったが、正式な列聖はこの日に行われた。
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生神女マリヤ福音祭
The Annunciation of Holy Virgin Mary
創造と、人が神様に対し大きな罪を犯してからというもの、神様は救い主イイスス·ハリストス(イエス·キリスト)がこの世に来られることを人間のために準備しておられました。人は大きな罪をおかし、神様御自身が人類を救うために降って行かなければならないだろうと言うことを神様はいつもご存知でした。
人々が救いを受け入れ、主に従って行く用意ができる、その時を神様はまた前もってご存知でした。神様はまた、救い主の母となれる大変清らかで、神様に 従順な女の子が現れる時を前もってご存知でした。
聖なる乙女マリヤは、そうした清らかで神様に仕えるのに 充分 な人でした。
マリヤは、両親のお祈りへのお答えとして生まれました。三才の時、宮に連れて行かれ、神様に差し出されました。その時からずっと、マリヤは神様の家に暮らし、いつも神様にお祈りをするという奉仕の他は何もしませんでした。
マリヤが12才になり、これ以上宮にいられなくなった時も -律法でそのように決められていました- マリヤは、このまま神様にお仕えしたかったのです。でもマリヤに一体何ができたでしょうか? マリヤは、自分自身が、生涯を神様に差し出し、神様に仕えるために、生涯清らかでいることを望みました。だが、その頃はまだ女子修道院 というものは一つもありませんでした。そこで、マリヤも修道女になることはできなかったのです。マリヤは祭司のところへ行き、マリヤが心から望んでいることを話しました。その老祭司は、マリヤが神様を愛していることを聞いて大層喜びました。祭司は神様にお祈りし、神様は祭司に何をしなければならないかお答えになりました。マリヤには一人のごく身近な親戚がいました。多分、伯父さんだったのでしょう。大変年をとった人でイオシフ(ヨセフ)と言う名前でした。イオシフ(ヨセフ)の奥さんは、イオシフ(ヨセフ)がこれから育ててゆかなければならない子供をのこしてすでに死んでいました。
祭司はイオシフ(ヨセフ)に話し、マリヤがイオシフ(ヨセフ)の 許嫁 となれるようにし、そして、イオシフはマリヤを助ける支度をしました。こうしてマリヤは、生涯処女として神様に仕えることができました。同時にマリヤは、お母さんを亡くしたイオシフの子供たちの母親としての役目も果たすことができました。こうしてマリヤはイオシフ(ヨセフ)と結婚し、イオシフの家に向かいました。
神様がお決めになったある時、聖処女マリヤは部屋で神様にお祈りをし、縫い物のお仕事をしていました。と、突然、強い光が部屋を照らし、マリヤの前に一人の輝 いている天使が立っているのが見えました。マリヤはすっかり驚き、糸を下に落とし、明るい光から自分を守ろうとするように手を上げました。
光輝く天使は、マリヤに優しく、愛情をこめて、そしておごそかな声で「マリヤ、聖神に満たされた人、喜びなさい。主はあなたと共にいます。あなたこそすべての女の前で祝福される人です」と言いました。
それを聞いてマリヤはあわて、それ以上に驚いてしまいました。マリヤは思いました。「でも、私は卑しい罪人なのだ。私のことを『聖神に満たされた人』なんて、なぜこの天使は言うのだろう?」
それから天使は、マリヤが救い主の誕生を成させるために、ただ一人選ばれた者であることを告げました。「でも、どうして私に子供が生めましょう」マリヤは答えました。「私は処女ですのに。」
天使はマリヤを安心させました。「聖神があなたのところに来て、一番強い光があなたの上に 輝 くでしょう。」天使はマリヤに、これからマリヤが生もうとしているハリストス(キリスト)は神の子となるであろう、そして、子供が生まれた後になってもマリヤは処女のままでいるだろう、ということを話しました。
天使ガブリイル(ガブリエル)がそれを言うと、マリヤは床にひれ伏して、涙を流して神様にお祈りを始めました。
実に、マリヤのお腹にできた子は、心から神を受け入れ、神様について行こうとする人々を救うために人となられた神でした。私達が聖母マリヤを Theotokos(テオトコス)と呼ぶのはそのためです。テオトコスとは「神を生みし者」(生神女)と言う意味です。
この天使は、マリヤに別の不思議な誕生について告げました。「あなたの身内のエリザベタは一度も子供を生んだこともなく年をとっていますが、今、子供を宿しています。神様はエリザベタとその夫にも、子供が生まれるようになさいました。」この子は先駆者イオアン(洗礼者聖ヨハネ)となった人です。
しっかりとした信仰と謙遜によってマリアは大変すなおに神様のご意志を受け入れました。「私は神様の召使です」とマリヤは言いました。「あなたが言われるようになりますように」
こうして天使ガブリイル(ガブリエル)はマリヤと別れました。後になって、ガブリイルはイオシフ(ヨセフ)のところにも現れ、マリヤが生もうとしている特別な子供のことを告げました。マリヤは喜びに満ちていました。マリヤは今までよりも祈りと 斎 をはじめました。
できるだけ早いうちにマリヤはエリザベタが住んでいるユダヤ地方の町に出掛けて行きました。
主の使いの天使は、すでにエリザベタにはマリヤから生まれる特別の赤ちゃんについて告げていました。それは神ご自身が私達を救うために、小さな子供となって地上に来られる様子です。マリヤがエリザベタの家に入っていくとエリザベタはマリヤに会いに急いで出て来ました。マリヤは「おめでとう、エリザベタ」と親戚の挨拶をしました。その時、エリザベタのお腹の中にいた赤ちゃんのイオアン(ヨハネ)は喜んでおどりました。
エリザベタは「主の母が私のところに来てくれるとは何とすばらしいことでしょ う」と言いました。
マリヤはエリザベタのところで三カ月間暮らし、ナザレに帰りました。イオシフ(ヨセフ)は聖母を今まで以上に尊敬と畏れをもってお世話しました。
ソース Source:
http://www.enromiosini.gr/orthodoxy-multilingual/
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悪魔は人を誘惑することを止めようとはしないが
Q&A
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
The devil will not stop tempting people
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――長老様、シリアの聖イサークはこう言いました。「弱点がない状態というのは、誘惑を感じないのではなく、誘惑を心に容れないことである」 このような状態を勝ち得た人が、誘惑の前で困難を感じることはありますか。
――それはあるかもしれん。ただ、悪魔が何をしようとしても、すべて修行者の中に燃えている神の炎がそれを焼き尽くしてしまうじゃろう。悪魔は人を誘惑することを止めようとはしないが、敵の誘惑を心に受けとめなければ、その時心は浄められ、ハリストスがお入りになられる。人の心は「燃え尽きることのない柴」、窯に変わる。何が心に入り込もうと、焼き尽くされてしまうのじゃ。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_どうやって霊的弱点から逃れるか.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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どうやって霊的弱点から逃れるか
Q&A
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――長老様、誘惑と戦う気持ちを起こさせるには、神への感謝の気持ちだけで十分ですか。
――それだけでは十分ではない。善い意志と、自分の罪深さを自覚すること、そして一生懸命修練を積むことが不可欠じゃ。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_どうやって霊的弱点から逃れるか.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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自己愛とは何か
聖山アトスのパイシイとの対話
What is self-love?
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
Q&A
――長老様、自己愛とは何ですか。
――自己愛とはな、人間が古ぼけた自分にこだわりを持つこと、つまり古ぼけた自分をよけいに愛することじゃ。腹いっぱい食ったり、自分勝手だったり、頑固、ねたみ、みんな自己愛から来ておるのじゃよ。ある者は便利さや快適さを求めて、他の人のことは考えもしないものじゃ。またある者は自分の健康にこだわりすぎるあまり、睡眠やら食べ物やらの決まりで頭がいっぱいだったりする。またある者は、周りが認めて評価してくれることばかり要求している。ちょっとでも傷つくようなことがあれば、すぐに憤慨しよる。「何でおれのことを認めてくれないんだ?どうするか見ていろ!」ってな。いやはや、自己愛とは恐ろしいものじゃ。
* * *
――長老様、どうして人が「爾のために我を殺さん」などと言えましょうか。
――言えるとも。他人のために自分の欲望を犠牲にすればな。どんな望みも、結局は「自分」、つまり自己愛を反映しておるのじゃ。自分がいいと思うものが、必ずしも他人の気に染むとは限らない。それを考えないでいると、あれが欲しいこれが欲しいと要求したり、「どうしてみんな私に○○をしてくれないのか、××を与えてくれないのか?」などと考えるようになる。こういう人間はゆくゆくは悪魔の手に落ちるのじゃ。
* * *
――自分の思い通りに事が運ばなければ気がすまない人々がいます。
――気がすまないのも当然じゃ。なぜって、何を望もうにもその中に「私」が陣取っておるのじゃからの。「私」ががんばっておる所に、ハリストスのおられる場所はあるかの?しかし「私」がたった独りの主ハリストスに場所をゆずれば、必要なものはすべてそろったと言えるのじゃよ。逆に言えば、ハリストスのおられぬ所にはなにもない。人が「自分」を捨てるとき、神は驚くべき方法ですべてを人に与えられるのじゃ。
* * *
――長老様、「自分」を捨てなければならぬとおっしゃいますが、それを考えるとこわくなります。もし私がそれに耐えられなかったら?
――何ということを!そりゃお前さん、「もし私が自分の霊的欠点をすべて捨てたら、後は何が残るだろう?」と言っているのと同じじゃよ。「自分」というのは、霊的欠点のことじゃよ。古ぼけた人間の皮を脱ぎ捨てることを意味しているのじゃ。分別のある大人が「『自分』を捨てることは出来ません」と言うのはおかしいのではないかな。もちろん、筆しか握ったことのない人間にくず鉄のかたまりを渡して「この壁を壊してみよ」と言ったら、「出来ない」と言うじゃろう。しかし古ぼけた人間の皮を捨て去るのに力は必要ないんじゃ。必要なのはあきらめじゃ。
自己愛というのは、必要以上に食ったり休んだりすることをいうのじゃ。健全な意味で、身体には必要なぶんだけ与えればよい。欲望と必要は区別しなければいかん。欲望とは体を甘やかすことで、必要とは不可欠なものじゃよ。たとえば、わしの前に料理が二皿あるとする。どちらも同じようにビタミンが豊富じゃが、一つはおいしいもので、もう一つはそれほどでもない。もしおいしいほうを好んだら、それは自己愛になる。だがもし病気で食欲がないところへそれを増す必要があるからうまい料理を取るのだとしたら、それは思慮深い判断じゃ。
師父マカリイが言うように、体というものは「悪い集税吏」でな。必要以上に要求するのじゃ。それは今までの習慣にどれだけ体が慣らされているかによるがの。小さい胃袋の持ち主は斎(ものいみ)するのは簡単じゃろうが、胃袋が大きければ人はその奴隷になってしまう。いつも何がしかの食べ物で胃を満たさねばならんからな。たとえば、こんな人がいるとする···その人の胃袋は倉庫みたいなもので、少なくとも子牛を半頭食べなければ気がすまん。で、食後はバケツ2杯分の水を飲む。
* * *
――長老様、昔の人はどうでしたか。体は今の人より丈夫だったのではないですか、それとも自分を甘やかさなかったのでしょうか。
――そりゃもちろん、頑丈だったし、自分を甘やかさなかったよ。長老ハッジ=ゲオルギイは修道士たちに毎日クルミと蜂蜜を少しやっていた。だって修道士は15歳やそこらで、まだ若い。成長しなければならない大切な時じゃ。ところが霊的にはまったくの大人だったのじゃよ。今はどうか?みんなこの世の論理に振り回されておるではないかの。「子どもたちには斎させる必要はありません。病気になったりしたら困りますから。不足を感じることがないように、困ったことからは守ってやらなければなりません」。かわいそうに、子どもたちはハンバーグやらトンカツばかり欲しがるが、それが何か彼らによい結果をもたらしておるかの?
ハリストスのために食べない者は、真の意味で自分を養っておるのじゃよ。もしハリストスのためにうまい料理よりまずいものを取るのだとしたら、それはまずいものを通してハリストスで自分を養っているということになる。
* * *
――長老様、今日教会で、お年寄りがやっとのことで階段を昇っているのを見ました。脇を通り過ぎていった人も多かったのに、誰も助けてやろうとはしませんでした。
――「祭司は···彼を見たが向こうを通っていった。そしてレビ人も···これを見たが向こう側を通っていった」ということかな?まったくその通りじゃ。福音書の善きサマリヤ人のことを知らないし、聞いたこともないのじゃな!言うべき言葉もない。他人ではなく自分を愛しているというわけじゃ。自己愛は他人への愛を滅ぼす、だからそういうふうに行いに現れてくるのじゃよ。しかしな、自分を愛する者は、福音書の心で生きてはいない。もしハリストスがご自分のことだけお考えになっておられたとしたら、天から地には下りて来られなかったじゃろう。わしらの救いのために苦しみをお受けにはならなかったじゃろうな。
きょうびほとんどの人間が自己愛を持っておるが、犠牲の心はない。「せめて自分さえよければ」という精神が支配しておる。周りの人々を見回せば、つらくなるばかりじゃ。近頃、病院でこんなことがあったよ。病人を起こして別の病室に移してやる必要があったのじゃが、看護師は腰を上げようともせんのじゃ。「出来ません。私は腰痛持ちですから」などと平気で言ってのける。それが自分の仕事であるにもかかわらずじゃ。なんとまあ、非人間的なことじゃろう!ところが身重の看護婦が同僚といっしょに病人を起こして運んでいったよ。彼女たちは自分のことは考えになかったのじゃ。一人など、大事な体だというのに、それも忘れてすぐさま助けようと走り寄ってきた。こういう、つらい立場にありながら他人のために自分を犠牲にする人を見ると、わしは本当にうれしい。心が躍るような思いがするし、親しみを覚える。なぜならそういう人は神に近いからじゃ。
* * *
――長老様、今日はずいぶん大勢の人があなたを待っておりましたが、一人の若い男性が列に並ばずに入っていきました。
――そうとも、入ってきてこう言うのじゃ。「あなたにお目にかからなければなりません。私はアテネに行きましたが、おられなかったのでここに来ました」
「よかろう、」とわしは言ったさ。「で、お前さんは見えんのかね、みんな待っているのを?他の人達をさしおいてお前さんの相手だけしていていいものじゃろうか?」
「父よ、その通りです」とまあ、こう言うのじゃ。まったく、どういうことじゃろう!みんな立って待っておる。すし詰め状態じゃよ。病人やら子ども連れの女性やら···ところがこの男は自分の要求を通そうとするのじゃ。それで、何か深刻な問題でもあるのかと思ったら、何やらつまらんことを持ち込んで来よった。いちばん大事なのは自分で、他人など滅ぼうがおかまいなしというわけじゃ。
こういうこともある。「父よ、今日は私のためだけに祈ってください。他の人達のことは祈りませんように」。こんな要求があっていいものかね?「この列車に乗るのは私一人だけ、他の人が車両に入らないように」と言うのと同じじゃ。列車はどっちにしても出発する、それなら他の人達もいっしょに乗っていっておかしいわけがなかろう?
* * *
――長老様、ハリストスのみ言葉「自分の魂を救わんとする者は、これを滅ぼさんとす」はどう解釈したらよいのでしょう。
――自分の命をよい意味で「滅ぼす」ということさ。自分の命を勘定にいれず、他人のために犠牲にするというわけじゃな。聖使徒パウエルも言っておろう、「おのれの益を求めず、他者の益を求めよ」とな。ここに霊的生活のみなもとがあるのじゃ。よい意味で自分のことを忘れて他人とまじわり、苦痛や困難を分け合うことじゃ。どうやって困難を避けるか、その方法を探すのではなく、他の人を助けてなぐさめてやる方法を考えることじゃ。
* * *
――長老様、そのためには何が他の人に必要か考えなければいけませんが、どうしたらよいですか。
――他人の立場に自分を置いて考えてごらん。そうしたら何が必要か分かるじゃろう。自分の殻の中に閉じこもっておったら、他人が何を求めておるか分かるはずもないからな。
今は多くの人が、どうやったら他人の場所に座れるかということばかり考えて、自分を他人の居場所に据えてみるかということはてんで考えもせん。領聖の時によくあることじゃが、他人を押しのけて聖杯に近づこうとする。「私は急いでいる、用事があるんだ」とそれぞれが考えていて、「私は領聖するにふさわしい人間であろうか?」とか「もしかして私より急いでいる人がいるかもしれない」などと考えておるかの?とんでもない!領聖して、平気な顔で出ていくのじゃ。万が一ご聖体がお前さんのぶんだけ足りなかったとしても、お前さんはそれを喜ばなければならん。それは誰か他の人がご聖体にありついたことを意味しているからじゃ。司祭の手のなかにたった一つのご聖体、たった一つの真珠が残ったとして、それをお前さんではなく、領聖する必要のある瀕死の病人が受け取ったとしたら、どうして喜ばずにいられよう?ハリストスがわしらに望んでおられるのは、実はこのことなのじゃ。こうしてハリストスが心にお入りになり、人を喜びで満たすのじゃ。
* * *
――長老様、私は姉妹のうちの一人とうまくいっておりません。
――それはな、多くの人は他人が自分を圧迫していると感じるのじゃが、実は自分が他人を圧迫しているということが見えないんじゃ。他人に要求はするが、自分に対してはどうかの?霊的生活というのは、このように逆に考えなければならん。わしらがこの世に生まれたのは、休んだり、便利に快適に暮らすためかの?陽気に楽しく暮らすためではなく、自分を浄めて、来る別な人生に向けて準備をするためじゃ。そうではないか?
もしわしらがいつも自分のことばかり考えて、好きなことばかりしていたとしたら、じきに他人もわしらのことを考え、仕え、助けてくれるよう求めるようになるじゃろう。つまり、自分がよければいいということじゃ。「私はこうしたい」と一人が言えば、「私はああしたい」と別な者が言う。おのおのが自分の好きなことを追うが、心はいつまでたっても落ち着かない。なぜなら、本当の平安は、人が自分のことでなく、他人のことを考える時に訪れるからじゃ。
1941年、ドイツ軍に占領されておった時、多くの村が焼き払われたり、人々が殺されたりしておった。わしらはコニーツァから山の方へ疎開したんじゃ。ドイツ軍がコニーツァに侵攻した日、わしの兄弟二人は山を下りて、トウモロコシ畑の土を掘り返しに行っていた。わしはその知らせを聞いて母のところへ飛んでいった。「お母さん、下に行ってお兄さん達に危険だって伝えてくるよ」。母はわしを行かせようとしなかった。なぜなら周りが言うに、いずれあの二人はだめだろう、だったらせめてこの子だけは引き止めておけ、さもないと子供を皆失うことになる、ってな。「そんなことがあるものか」とわしは思い、長靴をはいて外に飛び出した。あまり急いでおったもので、長靴のひもをきちんと結んでおかなかったんじゃな。撒水したばかりの畑でぬかるみにはまって、長靴だけすっぽ抜けてしまった。わしは靴は放っておいて、はだしで川沿いに走っていったのじゃが、そこはアザミがいっぱい生えておったのじゃよ。1時間近く夏の暑い中、トゲだらけの草の中を走って、何の痛みも感じなかったな。畑に着くと兄弟に大声で「ドイツ軍が来たぞ、早く隠れて」と叫んだよ。そこへ武装したドイツ軍の兵士が近づいてくるのが見えたんじゃ。「畑を掘るのを続けて。僕はトウモロコシを間引きするふりをしているから」とわしは言ったんじゃ。ドイツ兵は脇を通っていったが、何も言わなんだ。後で自分の脚を見たら、トゲで傷だらけになっておった。その時まで痛いなんてことさえ感じなかったのじゃ。このときの喜びといったら!自分を犠牲にした喜びじゃ。自分の兄弟を見殺しに出来るかの?もし彼らに何か起こっていたら?その時はわしの良心が苦しめたじゃろう。たとえわしに良心がなかったとしても、自分を正当化して言い訳する苦しみに苛まれたじゃろうな。
* * *
――長老様、どうして私の心は時々しか平安を感じないのでしょう?
――お前さんがまだ「自分」、古ぼけた人間の皮から脱皮していないためじゃよ。「自分」を殺すように努力してごらん、でないとそれはお前さんを滅ぼしてしまうよ。自己愛があると、心の平安を感じないものじゃ。なぜって内側では囚われの身になっているからな。そういう人間は何をしようにも、どこに行こうにもまるでカメみたいなものじゃ。カメが自分の頭を自由に出し入れ出来るかの?だいたいは甲羅こうらの中に閉じこもったままじゃろうが?
* * *
――理屈の上では私は自分をよくしようと努めているのですが、実際には···
――実際には難しい、と。ほら、こんな風にして古ぼけた人間の皮がわしらを圧迫するのじゃよ。だが、もし健全な判断をもって克服するよう努めれば、それはわしらを解放する。その時霊的生活は空中高く飛躍するのじゃ。
* * *
――長老様、地獄とはどんな風ですか。
――わしが聞いた話をしよう。ある無学な男が、天国と地獄を見せてほしいと神様にお願いした。そしてある晩、夢の中で声を聞いたんじゃ。「さあ行こうではないか、お前に地獄を見せてあげよう」。男はとある部屋の中におった。まん中にテーブルがあって、周りに人が大勢座っておる。テーブルの上にはなべがあって、料理でいっぱいじゃ。ところが皆飢えておる。柄の長いスプーンで食べ物をすくうのじゃが、口に持っていくことが出来ん。だから不平を言ったり、わめいたり、泣いたりしておるのじゃよ。そこでまた声が聞こえた。「今度は天国を見せてあげよう」。男はまた別の部屋に連れて行かれたが、同じようになべの乗ったテーブルがあって、柄の長いスプーンを持った人々が座っているのも同じじゃ。だがここでは皆腹いっぱいで楽しそうじゃ。それもそのはず、おのおのがスプーンで食べ物をすくうと、別の者を食わせてやっていたからじゃ。これでもうお分かりじゃろう、この世でどうやって天国を感じることが出来るか?
善を為す者は、神のなぐさめを受けているのでうれしいのじゃ。悪を為す者は苦しむ。この世の天国がこの世の地獄に変わってしまう。もしお前さんの心に愛や善があれば、どこに行こうが何をしようが、天国を持ち歩いているようなものじゃ。もし心に欲や憎しみがあったら、それはお前さんの中に悪魔がおるということじゃ。それだからどこに行こうと何をしようと、地獄がついていくじゃろう。こうしてわしらはこの世にあってもう天国と地獄を体験するのじゃ。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_自己愛とは何か.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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どうやって霊的弱点から逃れるか
Does thinking of death help spiritual deeds?
Q&A
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――死を思うことは霊的行いの助けになりますか。
――非常に助けになるとも。神に望みを託しながら死について考えると、この世の空しさがよく分かる。そして霊的な助けを得ることが出来るのじゃ。だから神の裁きに思いをはせなければならん。わしらが悔い改めなかった罪の責任をいずれ負わなければならないということを忘れてはいかんのじゃよ。「私は何をしているのか?どうして喜びを感じずに生きているのか?今死んだとしたら、私はどうなってしまうのか?私が死と契約を交わしたとでもいうのか?大人も子供も関係なく死んでいるというのに?神がもうすぐご自分のもとに私をお呼びになるとすれば、その時はもう罪を犯すことはないだろう」。
弱点を根絶やしにするには、死、最後の審判のことを考え、自分がどんなに努力しているかをハリストスにご覧いただかなくてはならん。だってハリストスがわしらを救うために大変苦しまれたのだからの。誘惑との戦いというものは、ハリストスの愛のもとに神の掟をまっとうするための甘美な受難と同じ事なのじゃよ。すべての欠点に打ち勝ってハリストスを侮辱するよりは、英雄的に死んだほうがましというものじゃ。
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http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_どうやって霊的弱点から逃れるか.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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葬儀社とはなんですか?
What is a Funural?
お葬式のしきたりは
臨終が近づいたら司祭を呼び、臨終のお祈りをします。息を引き取ってから三日目に埋葬式を行いますが、その前夜には前夜祭の祈りが行われます。永眠者(死者のことを正教会ではこのように呼びます)は本来土葬されます。これはハリストスの復活のおかげで、人間の死は「終わり」ではなく、主の再臨の時に実現する全死者の復活までの「眠り」にすぎなくなったことを、表すためです。残念ながら、日本では土葬が許される都道府県が少なく、ほとんどの場合やむなく火葬しています。
ソース:
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http://nagoya-orthodox.com/ja/中学生の質問にお答え.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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天国にはどうやって行くのですか
How do I get to Heaven?
天国にはどうやっていくのか、つまり最後の審判の時に、永遠の生命をいただくためにはどうすればいいのか。簡単です、神さまがお喜びになるような生活をすることです。つまり、それまでの神さまに背いていた生活を悔い改め、ハリストスの救いを信じ、ハリストスの教えた生き方を生きること、つまり「愛」です。仲直りできていない人がいれば赦し、仲直りし、人をいじめたり困らせるのをやめ、反対に、弱い人たちを助け、困っている人たちに親切にし、悲しんでいる人を慰めてあげることです。
キリスト教のことを全く知らないで生涯を送った人でも、同じような愛の生活を送った人は、永遠の生命に入れられるでしょう。
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名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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聖書の内容を教えてください
Please tell me the contents of the Bible
現在キリスト教が用いている聖書はおよそ二千年近くかかって書き記された様々な文書を寄せ集めたものです。それは、それぞれの時代の、指導者たち、祭司たち、預言者たち、詩人たち、また新約聖書ではハリストスの使徒たちが、神さまから特別のお力をいただいて書き記しました。神さまが人間に教え伝えたいメッセージを知るための、大変重要な啓示(本来目に見えない神さまが人にご自分を示すこと)です。
旧約聖書は、天地創造の物語からイイススがこの世に生まれる直前までの、人類と、特に神さまが人間の救いの突破口としてお選びになったユダヤ民族の、神さまとの関わりが、歴史物語、律法(守るべき戒め)、礼拝の歌、預言者たちの言葉など、さまざまな種類の文書で描かれています。
新約聖書は、ハリストスの生涯とそのお言葉を伝える四つの「福音書」、使徒たちの働きを記録した「使徒行伝」、聖パウロや他の使徒たちの「手紙」と、この世の終わりのことを不思議な象徴をたくさん使って暗示した「黙示録」によって構成されています。
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どうやって霊的弱点から逃れるか
Q&A
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
I always try to fight seriously with my own faults, but I will not do anything after all.
Why is that?
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――長老様、私はいつも自分の欠点と真剣に戦おうと思っているのですが、結局何もしようとしません。なぜなのでしょう。
――何だってお前さんはすぐに全部解決しようとあせるのかの。欠点というものは高徳と同じで、一つの輪っかになっているのじゃよ。一つの欠点がもう一つと結びついているように、徳も別の徳とつながっていて、まあ、列車の車両みたいなものじゃな。もしお前さんがある弱点と戦って、自分の心の中にその欠点と正反対の徳を育ててみたとしたら、しまいにはお前さんが戦いに勝つじゃろう。そうやって一つの弱点から逃れれば、結局は別の弱点も克服することが出来、それと同時にお前さんの心に徳は増していくばかりなのじゃよ。
たとえば、お前さんがねたんでいるとする。ねたみと戦って、自分の心に愛や善い行いを育てれば、ねたみばかりでなく、同時に怒ったり、人を議したり、憎んだり、悲しんだりすることから逃れることが出来るのじゃ。
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どうやって霊的弱点から逃れるか
Q&A
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――自分の欠点のことを考えると、どうしたらいいか分からなくなります。
――うろたえたりこわがったりしてはいかん。一番大きな欠点を克服することから始めて、それから一つずつ弱点に打ち勝っていくのじゃ。まずは理屈よりもしっかり腰を据えて、一番深刻で、目につきやすい欠点を滅ぼすことから始めるのがよい。太い根っこが枯れ始めると、周りの細い根っこもじきに枯れていくもので、それと同じ事じゃ。もっとも大きな弱点を滅ぼせば、それといっしょにほかの小さな欠点も絶えてしまうじゃろう。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
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名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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どうやって霊的弱点から逃れるか
Q&A
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
Considering my faults,
I do not know what to do
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――自分の欠点のことを考えると、どうしたらいいか分からなくなります。
――うろたえたりこわがったりしてはいかん。一番大きな欠点を克服することから始めて、それから一つずつ弱点に打ち勝っていくのじゃ。まずは理屈よりもしっかり腰を据えて、一番深刻で、目につきやすい欠点を滅ぼすことから始めるのがよい。太い根っこが枯れ始めると、周りの細い根っこもじきに枯れていくもので、それと同じ事じゃ。もっとも大きな弱点を滅ぼせば、それといっしょにほかの小さな欠点も絶えてしまうじゃろう。
ソース:
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名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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キリストはほんとうに生き返ったんですか
Was Jesus Really Resurrected?
ハリストスの復活は仮死状態から蘇生したのとは違います。三日目によみがえったということは、完全に死んでから、ふたたび生命を得たということです。しかも、お弟子さんたちの隠れている部屋に、閉ざされた扉を通じて入って来れるような不思議な「新しい体」をもってよみがえりました。それでも幽霊ではないということを教えるために、お弟子さんたちの前でお魚をむしゃむしゃ食べたり、十字架に釘づけられた傷を見せて、さわって見なさいと命じたりしました。
ほんとうに不思議なことです。でも、これを信じなければキリスト教ではなくなります。このハリストスの復活を信じてこそ、終末の時の全人類の復活への信仰も、私たち一人一人の洗礼による、また悔い改めによるよみがえりへの信仰も確かなものとされるのです。
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どうやって霊的弱点から逃れるか
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
Q&A
I tell myself to my every day, “Let’s start praying from tomorrow and am going to change myself.” But everything is as it is
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――長老様、私は毎日自分に言い聞かせております、「さあ、明日から祈りを始めて自分を改めよう」。でも何もかもが今までのままです。
――神の前に立ち、こう言うことじゃ。「神のお力によって私は務め改めます」とな。そうしたら神はお助けくださるよ。お前さんが自分を改めたいと思うのは、つまり、助けを得るということと同じじゃ。神に助けを求める――すると神はお前さんに手をさしのべてくださるじゃろう。お前さんは、自分に出来るほんのわずかなことをする、そうやって前に進んで行く。赤ん坊が自分の手で大きな石を動かそうとしているのを見たら、誰でも飛んで行って助けてやるじゃろう、そう思わんかの?神も同じで、お前さんの小さな努力をご覧になれば、勝利する事が出来るよう助けてくださるのじゃよ。
自分を改めようと何の努力もしないで「わがハリストスよ、私の中にこのような欠点があります。あなたはそれを取りのけることがお出来になるでしょう。どうぞ私を逃れさせてください」と言う人間がおるが、神がどうやって助けることが出来るじゃろう?神が助けるには、まず人が努力する必要があるのじゃよ。神が助けてくださるためには、人が自分でしなければならないいくつかの事柄があってな。自分を助けたいと望んでもいない者が、助けを受けることなどありはせんのじゃよ。
わしらは、時には不思議な方法で神の恵みと贈り物とを受けることがある。戦いもしないで何がしかの徳を得ることが出来て、聖人になれるかもしれんなどとさえ思いがちじゃ。しかし、神が何かをお与えになるには、わしらは努力しなければいかん。それなしにどうやって神が何かを与えることが出来るかの?トロパリで歌われているではないか、「不毛の荒野を耕せり」と。神が雨を賜い、土を柔らかくする。けれどもわしらは自分の畑を「耕さなければ」ならんのじゃよ。土地の準備が出来ても、鍬を入れて種をまかなければ何にもならん。種をまいたぶんだけ刈り取ることが出来る。耕さなければどうして種をまくことが出来るかの?もし種をまかなければ、どうして刈り取ることが出来る?それだから、神が何をお出来になるかと尋ねるのではなく、自分が何を出来るのか、それを自分に問わねばならん。ハリストスという名の銀行は、そりゃあ利息が高いのじゃよ。だがこの銀行にわしらが口座を持たなかったら、どうやってそこから金を受け取ることが出来るじゃろう?
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